アイゼンのしたの空

俺が死にかけた時の話をしよう。この話を読んで「たいしたことは無いぜ!」と笑う奴もいるだろう。だけどそんな奴はほっといたらいい。いつかはてめえの身に降りかかることかもしれないのだ。
なぜこんな馬鹿をやったかって?事の始まりを説明するには事故の起こる2年前までさかのぼらなけりゃいけない。しかし少し辛抱して聞いてくれ!

1990年の五月、初めての八ヶ岳登山だった。初心者の場合はまず無雪期の夏山に登り、登山道の状態を確認した上で残雪期に登るのが真っ当な順序だと思う。だがその前年の五月に雲取山から金峰山まで縦走して「なんだ、春山もたいしたことは無いな!」とただ一度の経験で春山の全てを熟知したと勘違いしてしまった俺はその勢いのまま翌年は八ヶ岳に来てしまったのだ。
それでその年の八ヶ岳登山はどうだったかと言うとたいしたことは無かった。ほとんど雪が無い上に晴天にも恵まれていたので気温が低いと言うこと意外は夏と変わらない状態で蓼科山から権現岳まで縦走してしまった。この時、バカな俺は調子に乗って「八ヶ岳は標高が高い割には雪が少ない。毎年、ゴールデンウイークは八ヶ岳に登ろう!」と一人決め込んでしまったのだ。

翌年、1991年。渋の湯から黒百合小屋を経て赤岳を目指した。来て見て驚いた。雪がバカみたいに残っていたのだ。
最初は雪の多さに少し不安だったが歩き出すと大した事はない、むしろ雪が有った方が歩きやすいことに気が付いた。特に黒百合小屋から天狗ノ庭を通って天狗岳に向かう道などは普段は岩がゴロゴロ転がっている歩きづらく疲れる道なのにこの時は岩が全部雪の下に隠れてしまっているので真平らな雪原を鼻歌交じりに天狗岳まで直登したのだ。
しかしどこにも嫌な奴っていうのがいるもんだ。パッピ−な気分で歩いていると「アイゼンもピッケルも無いんですか?今年は残雪が多くて危ないから引き返した方が良いですよ!」とこの俺を脅しにかかった奴がいた。まったくお節介な野郎だ!これ位、目瞑ってたって歩けるさ!」
ところが横岳付近まで来ると登山道は険しくなり、雪の斜面をトラバースしたり、のん気に歩けなくなって来た。
そしていよいよ目の前に赤岳の急斜面が迫るとさすがに顔から薄笑いが消えた。「マジにやばいぜ!」俺だってバカじゃない。自分の置かれている立場がどんなもんかぐらいはわかる。下手に登って行って一歩足を踏み外せば地獄まで真っ逆さまに落ちることは明白だ。「悔しいが、こりゃ、赤岳登頂は諦めて降りるしかない!」と赤岳登頂は断念して地蔵尾根を降り始めた。それにしてもこの尾根、初めて歩くルートだが雪が無い時はどうなっているのだろう?雪で出来た尾根は余りにも細く、鋭く剃り立った道の両端は雪の斜面が遥か下まで切れ落ちている。滑ったらそれでジエンドだ。
幸いにも先に歩いた人の足跡が雪の穴となって残っていたのでその穴に慎重に一歩ずつ足を差し入れて降りて行き、どうにか無事に行者小屋までたどり着くことが出来た。(左の写真は上から90年、91年、92年の硫黄岳からの赤岳の様子)

そしてその翌年、92年の五月の話になる。
昨年の経験でアイゼンは絶対に必要だという事が分かった。アイゼンがあればどんな道だって滑らずに歩けるのだ!ピッケル?まぁーあれは滑った時に雪の斜面に打ち込んで流れを止めるものだから滑らなけりゃあんなの全然必要無い!。
今年こそはと念願の赤岳登頂を目指して昨年と同じルートを進んだ。やはり昨年の雪の量は異常に多かったらしく、今年はそれ程でもなかった。そしてとうとう赤岳山頂まで登り着いた。
登頂の喜びに十分浸ったのでさて降りようとすると、下山予定の県界尾根は雪が多く通行止めになっていた。去年通った地蔵尾根から下山しようか?悩んでいるとそばに居た男性が「降りるルートは地蔵尾根よりも阿弥陀岳の鞍部まで降りてそこから行者小屋まで降りた方が楽ですよ」と教えてくれた。丁度その人も降ると言うのでその後に付いて行った。
鞍部まで降るとその男性が「私はここから阿弥陀岳に登ります!」と俺を挑発して来た。「ここまで来たついでだ、阿弥陀岳も登るとするか!」と俺もその男性の後に続いて行こうするとその男が「この登りは急だからピッケルが無いなら止めた方が良いですよ!」とまたもお節介だ。「けっ!、赤岳に比べたら阿弥陀岳なんてたいした事は無い!」。
しかし登っているとヤバそーな感じがした。雪が積もった直登ルートは本当に急なのだ。赤岳の登りも急だったが登山道にしっかりと足跡が残っていたのでその上にキッチリと足を乗せて歩いていれば良かった。しかし阿弥陀岳の斜面は表面がボコボコに荒れていてハッキリとした足跡が無い。雪の斜面につま先を蹴り入れてキックステップで登ってはいるが帰りの下山時は大丈夫だろうか?と心配になった。(左の写真は登っている様子、この時はまだ余裕があった。)

阿弥陀岳山頂に着いてみると先を歩いていた男性は既に食事を始めていた。俺は展望を一通り楽しむとすぐに降りることにした。

しかし今登って来た斜面の角度を思い出すと「ちょっとヤバイな?」と思った。せめて何か手に持っていたほうが良いだろうとザックからカメラの三脚を取り出した。
山頂を歩き出すと斜面は段々と急になり、そして絶壁ではないかと思えるくらい目の前の斜面は遥か底に向かっている。ビビッていても仕方ない。かかとを思いっきり雪の斜面に叩き込んだ。
2,3歩歩いた時だ。いきなり足の下の雪がザザーッと崩れてバランスをくずした俺の体は雪の斜面を滑り出した。生まれて始めての滑落である。驚いたのは予想以上に加速がすごいことだ。何かに引っ張られるように一直線に滑り落ちて行く。
その時の服装は上はレインウェア、下はコットンパンツにスパッツと言う格好だったが問題はそのレインウェアだ。雪に対して根性が無いと言うか、雪の言いなりと言うか、もうスルスルと加速していったのだ。
滑った!と思ったその一呼吸後にはもう相当な速さになっていた。慌ててうつ伏せになり、必死で手にした三脚を思いっきり雪の斜面に叩き付けた。足に付けたアイゼンを何度も蹴り込んだ。すると幸運にも落下している体が停止した。
「あー驚いた!心臓に悪いぜ、まったく!」と立ち上がろうとしてした時だ、またしても踏み出した足の下の雪が崩れてまたも体が斜面を滑り出した。さっきと同じように手足をバタつかせ無我夢中でもがいた。ところが今度は体に力が入らないのだ。さっき滑落した時に持っている全てのエネルギーを消費してしまったような脱力感で体に力が入らない。天狗岳から赤岳まで縦走して来て疲れている体にさっきの滑落だ。体には気力も体力なんて残っていないのだ。
わずかに残っている体力の全てを振るい立たせ必死で雪の上でのた打ち回った。だが体はヘトヘトに疲れて動いてはくれない。「もう駄目かもしれない。もしかしたら死。。。」と言う思いが頭を過ぎった。このまま深く暗い谷底に吸い込まれてしまうのだろうか?何とかしなくては。。。
恐る恐る肩越しに下を覗き込んだ。すると滑り落ちている足のずっと先、下の方の雪の斜面の中から木が数本出ているのが見えた。「あの木に引っ掛かればなんとか止まるかも知れない!もうそれしかない。」

具体的にどうやったかは覚えていないがとにかく木の方へ向かうように無我夢中で体を動かした。

ザザッ−!体が木に突っ込んだ。ゆっくりと目を開けると青空が見えた。「あー、俺は助かったんだ!」と。。。そんな事思うわけがねー!そんなイカレポンチみたいな事を思う訳が無い。そんな事思うのはB級映画の中だけだ。ほんの30秒前は雪の上で必死にのた打ち回っていた奴がそんなのん気に「あー、俺は助かったんだ!」と思うだろうか?木に突っ込んだ俺は「やった!止まった!やった、やった!」と思ったが安堵した気持ちは無く、次の瞬間には体は大丈夫か?怪我していないか?と体のあっちこっちを無我夢中で見て回った。
幸い、どこにも怪我は無かった。体に異常が無いことが分かると初めて深い安堵の息が体の奥から湧き上がってきたのだった。
呼吸が落ち着くまでしばらくかかった。心臓の鼓動も段々と落ち着いてきたので「降りよう!」と立ち上がろうとすると情けないことに足が震えていて力が入らない。それでもどうにか立ち上がり、振り返ると自分が滑り落ちた跡が雪の斜面にトレースとして残っていた。その跡を見ていたらなんだか無性に可笑しくなった。「あのまま滑り落ちたら清里駅まで滑って行ったかもしれない。そうすると歩かなくてすんで楽だったかもしれない」とバカなジョークに急にヘラヘラと笑いがこみ上げて来た。

行者小屋へ向かって雪の斜面を道を歩き出す。足には相変わらず力が入らずヨタヨタと情けない足取りだった。何度もコケながら歩いた。そしてその度にヘラヘラと笑いながら何度も立ち上がった。

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