長く素晴らしく憂鬱な夜 (ある夜の物語)

山小屋での僕の悩みは眠れないことである。
正確に言えば寝つきは良くてすぐに寝てしまうのだが夜中に一度目が覚めるともう大変!朝まで羊の数を数えつづけることも少なくない。でもどうしてだろう?僕が神経質なのだろうかとも思ったりもするが普通の旅行ではホテル、旅館、民宿に泊まってもぐっすりと朝まで熟睡できるので何か別の理由があるに違いない。
山小屋は街のホテルではないので色々と不便なのは仕方が無い。逆にその不便さが楽しくもある。部屋にぎゅうぎゅうと押し込まれ、一つの布団に3人というのも珍しいことではない。おまけにその布団もじめっと湿っていてただでさえ安眠できる環境にはない。それでも夕食を食べてお酒も少し入るとさすがに一日の疲れが一度に出るのか急に瞼が重くなる。たとえどんな最悪な環境だろうが睡魔には勝てない。布団に滑り込んだとたんに意識は薄れ眠りに入る。普通だったらこのまま朝まで熟睡するのだが、山小屋ではなぜか決まって夜中に目が覚める。

次の話はある夜、ある山小屋での物語である。

どれ位眠ったんだろうか?今何時だろうか?と暗闇の中で枕元の時計を探し当て文字盤を見る。「何てことだ!まだ10時である。布団に入ったのが8時だから2時間しか経っていない。起きる予定の5時まであと7時間もある。明日の山歩きの行程を考えると今日の疲れを明日に残すわけにはいけない。睡眠2時間では疲れもまだ取れてはいないだろうがあと時間は7時間もあるので疲れを取るのには十分だ」そう思って目を閉じる。
「しかし、何でだ?ぜんぜん眠れない。眠くない!。まさかこのまま朝まで寝れないって事は無いよな?まだ2時間しか寝ていないんだから体はもっと眠りたいはずだ。待てよ、睡眠は脳の休息だから眠りたいのは脳の方か?。。。いかんいかん!別にどっちでもいい事だ!こんなこと自己問答している暇が有ったらさっさと寝てしまおう」
「ぜんぜん眠くない!。。。落ち着け落ち着け。。。あと7時間も有るのだし目を閉じていればそのうち眠ってしまうに違いない」しばらくすると「ほうらぁ思った通りだ」意識がぼんやりとして深い眠りの沼に引きずり込まれそうになった。

その時である。静かな闇を切り裂き爆音が炸裂した。「ガァー、ゴォー、グ、グ、グ、グゴォー」
「な、な、何が起きたんだ?」眠りの沼を彷徨っていた意識は突然山小屋に引き戻されてしまった。参った!ゴジラ級のメガトンイビキである。しかも震源地はすぐそば、二人向こう隣で勃発している。「せっかく眠れたと思ったのに。。。。今何時だろう?」「げぇー、まだ11時である。あれから一時間しか経っていない。しばらく眠れずに起きていたから正味寝たのは30分も無いだろう」まったく勘弁してほしい。あと六時間で夜が明け、7時間後には歩き出さなくてはいけないのだ。
「畜生!こんなイビキに負けてたまるか!喧騒の電車の中やロックコンサートのPAの前でも寝れる俺だ!この位の騒音がなんだ!俺は寝てやる。絶対に寝てやる」そう思って目を閉じる。が前にも増して眠気は消し飛んでいた。ぜんぜん眠れない。「あぁー神様はどうして目みたいに閉じれる耳を作っては下さらなかったのだろう!」いくら目を閉じても僕の頭の中にはどんどんと爆音は進入してくる。もはや眠気は頭の中からイビキに完全に押し切られてしまった。「それにしてもイビキをかいている本人はうるさくないのだろうか?」時が止まったような暗い小屋の中でイビキの音と僕の心臓の鼓動だけが響いている。
ふと、面白いことに気が付いた。よく聞いてみるとイビキというのは息を吸った時と吐いた時の音程が違うのである!「これはどういうことなのだろうか?イビキと言うのは鼻の奥が振動して音が出ているわけだから息を吸うときに鼻腔が広がって音程が下がっているのか?いや待て待て!鼻腔が広がっているってことは逆にのどは圧迫されて細くなっているから吸うときが音程が高いのかもしれない?」しかし僕に医学知識などあるはずも無かった。これは自分でやってみる方が早い。

「。。。まったく俺は何をやっているんだ!今はいびきの研究をしているときではない。今、俺がやることは何だ?そうだ!明日にそなえて少しでも寝て休息することだ」と再び目を閉じる。
いつの間にか無意識にイビキの音を追っている自分に気が付いた。「あの轟音も繰り返し鳴っていれば催眠効果で眠れるかもしれない」と思っていると突然イビキが止まった。それも「ガァー、ゴォー、グ、グ、グ。。。」と途中でである。「死んでしまったのだろうか?」と心配していると再び始まった。全く人騒がせな奴である。不規則に途中で急にイビキが止まるのでそれまで以上に気になってきた。変拍子なイビキに段々いらいらしてきた。
あれ!気が付くと部屋の中が静寂を取り戻している。いつの間にかイビキが鳴り止んでいる。しめた今のうちだ。今のうちに寝るしかない。今を逃したらいつ寝れるか分かったものではない。息を整えて落ち着こう。そうだそうだそれで良い。呼吸も落ち着いてなんだか意識が途切れるようになってきた。もうすぐだ。もうすぐ眠りに落ちそうだ。

「ガァーゴォー、グ、グ、グ、ピーッ」
再び闇を切り裂く爆音が再開した。「くそっ!あともう少しで眠れそうだったのに。。。ところで今何時だろう?時計を見ると夜中の1時である。やばい!5時まであと4時間しか寝る時間は残されていない。冗談抜きで寝ないとまずい!
どういうことだ!イビキのパターンが先ほどとは変わっているのに気が付いた。さっきは「ガァー、ゴォー」だったのが今は「ガァー、ピーッ」に変わっている。息を吐くときの音が「ゴォー」から「ピーッ」に変わっているのだ。「ピーッ」の音は鼻がリコーダみたいに鳴っているのだった。何だ。この男!こんなにイビキにバリエーションが有るのか!まったく驚いた奴だ。それにしてもこの男、リップリード奏法とエアリード奏法を巧みに使い分けるとはまったく器用な奴である。感心している場合か!この技に打ち勝って早く寝なければいけないのだ。
またしても爆音によって頭はすっきりと目覚めてしまっている。羊の数を数えたり、寝返りを幾度となく打ち返しても一向に眠れない。もしかしたらこのイビキは一晩中続くのだろうか?朝まで静寂の時間は訪れないのだろうか?憂鬱な気持ちでいつ終わるとも分からないイビキの音を聞いた。
「いっそのこと、毛布を持って廊下に出ようかと思った。その方がゆっくり眠れるかもしれない。しかし新しい環境に興奮してしまって余計寝れなくなってしまうかもしれない」などと色々と思案していると部屋のどこからだろう?ごそごそと寝返りを打つ音がしている。誰か僕と同じように眠れない人が居るのだろうか?仲間が居るのだろうか?ぼそぼそと声が聞こえてきた。「いびきがうるさくて寝れないよ!」とひそひそ声が聞こえる。「そうだその通りだ」この部屋のどこかに僕と同じ悩みを持つデリケートな人が居るのである。

ところで今何時だろうと時計に目をやる。2時だ。どうしよう!あと3時間で起きる時間なのだ。しかし眠くなるどころか目は冴えてくるばかりだ。それにしても皆、良くもこんなうるさい中で寝れるものだと思う。考えたら何も僕一人でこんなに悩むなんて馬鹿馬鹿しい。眠れないのは僕のせいではない。イビキおやじのせいなのだ。せめてこの部屋に居る人全員でこの苦しい気持ちを共有しなけりゃ許されない。どうにかして他の人を起こしたい。皆で起きて悩みを相談し合おう。それが青春、山の掟ではないのか!
そうだ!くしゃみをしよう。わざとデッカイくしゃみをしよう。3回くらいする間にびっくりして5人くらいは起きるかもしれない。それで駄目だったら寝ぼけた振りして「バカヤロー!」と叫んでみよう。いや、待てよ。ここは山小屋だ。「ヤッホー!」の方が自然だし客の反応がいいかもしれない。いや!待て待て。どうせだったらこれはどうだ!「眠るな!眠ったら死ぬぞ!」

何だか疲れてしまった。自分の浅はかな考えに嫌気がさした。他人を起こして何になるというのだ。他の人が起きたからと言って自分の睡眠時間が増えるわけではない。時計を見ると3時だ。「もうどうにでもなれ」と思った。「このまま朝まで寝れなくても何とかなるさ」と思った。
開き直ったせいなのだろうかなんだか急に眠たくなってきた。そういえばイビキもとうとう力尽きたのか鳴り止んでいる。ついに、ついに僕は勝ったのだ。長い死闘だったが決戦の勝者はこの僕なのだ。5時に起きる予定だったが朝食時間の5時半まで寝ていよう。そうすれば2時間はまだ寝ることが出来る。

「そろそろ起きよう!」と声が聞こえてきた。ガサガサと何か袋の音が聞こえる。
「今から小屋を出れば山頂で御来光を拝むことが出きる。。。」どうやら早発の人が起きてきたらしい。もうそんな時間なのか?僕が今から寝ようとしているのに比べて今から行動をし始めている人がうらやましい。
「今日はこれから山頂に登ってそこで朝食にして。。。」リーダーらしい人の声が説明を始めた。頼むから部屋の外でやってくれ。こっちは今から寝るところなんだ。
「山頂までどの位?」おばさんの明るい声が響く。山頂までどれくらいか知らないがあと2時間寝れる。
「田中さん、調子はどう?」田中さんて誰だ!さっさと部屋から出てくれ!たのむぅ!
「今日の天気はどうかしら?」あと。。。2時間。。。
「帰りに温泉に寄るのよねぇ!」。。。あと。。。

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